―不屈の起業家精神が創出した新商法

■昭和24年:創業時代、趣味が高じて釣具店経営へ

 先代社長の髙宮義諦は、大正4年3月29日熊本県阿蘇郡南小国町に生まれました。下駄製造に関係した家業のため高等小学校を卒業するまで山村を転々と5回にわたり転校を繰り返し、大工仕事に従事。その後は八幡市(現北九州市八幡東区)へ転出し、業務の傍ら小倉工業学校にて過ごしました。

 昭和12年には日本国有鉄道小倉工場に入省。その間、東京鉄道教習所に学び任官、大東亜戦争勃発のため昭和18年中支に従軍しました。帰還後の昭和20年に復職したものの、戦災のため行橋市(妻の実家)に居住しました。夫人の実家は化粧品販売を営んでいましたが、義父・先代共に根っからの釣り好きであったため、昭和21年、釣具の取り扱いを始めました。この時釣具商売に足を踏み入れたのが創業の発端となったのです。

■昭和24-26年:雪降る冬日にお客様の後ろ姿を拝んだ創業時

 戦後、日本国有鉄道小倉工場に勤務していた先代は、小倉市の常盤橋々上でひしめき合う釣り人を眺めていました。そのような光景を目の当たりにしたことから「これからはレクリエーション時代になる。中でも、釣りは日本人にとってかけがえのない趣味になる。釣具店を開業しよう」とひらめきました。そして、橋の際に1.5坪の2階付店舗を見つけ、昭和24年10月に開店。同25年には、当時羨望の的であった国鉄を辞めるほどまでに強い熱意を持って本格的に釣具の小売販売業としての第一歩を踏み出しました。当時の釣具店は11月から3月までは殆んど休業状態で、半年商売と言われていました。しかし、生活を賭けた先代は、一人も来客のない寒い冬の日も、元旦すら一日も休むことなく営業し続けました。厳しい状況が続きましたが、時折お買い上げ頂くお客様には心からの感謝を込め、後ろ姿が見えなくなるまで夫人とともに手を合わせ拝む日が続きました。

■昭和25-38年:卸業へ進出、外交販売の強化へ

 創業からしばらくの間、製品は近くの問屋や東京、大阪から仕入れていましたが、卸・小売業の流通の中核は卸業者が断然強く、先代は卸業開設を決意、昭和27年に八幡市中央町へ進出し卸業を併せて開業しました。しかし、名も知らぬ卸店ということで、問屋筋からの圧力が日に日に増していきました。もちろん小売店にもなかなか相手にされず、仕入れと卸販売の苦しみを幾度となく味わいました。

 そうした苦労と実績の積み重ねの中で次第に信用も増し、ようやく経営が軌道に乗りはじめました。その当時の卸販売の形態はカバン一つの外向販売が主流でしたが、当社はいち早く自転車よりオートバイ、そして全国で初めての自動車販売を取り入れ、小売店店頭へ直接商品をお届けするルートセールスを確立しました。また、メーカーとの代理店契約も実績と共に増えたと同時に高度成長時代の第1次レジャーブームにも乗り、昭和38年株式会社高宮諦商店を設立、順調に卸業務を拡大し売上を伸ばしていきました。



―苦渋の末、社運を賭けた営業の大転換

■昭和43年:圧力に屈せずお客様のニーズに応え、量販小売業への参入

 卸業務をさらに拡大し、九州はもとより、四国、中国、山陰地区と一時は車輌20数台を駆使してのルートセールスでした。しかし、同一方法をとる同業者の競争増加や交通渋滞、車輌事故による効率の悪化等、外交販売の商売としての脆弱さが露呈しはじめ、転換の機をうかがっていました。そんな中、昭和42年にスーパーダイエーよりテナント出店の要請を受けました。当時、卸9:小売1という売上比重の中で卸販売を主としていた当社のダイエー出店は、依然閉鎖的な業界の中で大変な困難に直面しました。また、全取引先の半数近い小売店からの不買同盟、メーカーからの圧力等があり、一時的に卸売は前年比30%まで落ち込みました。

 さらに、出店を決断するまでには将来の釣具店の方向性と業界に対する信義、秩序問題など社運を賭けた苦悩の数カ月を過ごすことになりました。そして、最終的には全幹部一致で昭和43年、スーパーダイエー小倉店の出店を決意することとなったのです。

■昭和43年-55年:躍進の原動力となったスーパーダイエーとの取り組み

 業界あげた猛反対の中でのスタートでした。先代と長女の勝賀瀬祥子が先頭に立ち、これまでの取り引きで信用を頂いていたメーカーや問屋を説得、昭和43年ようやくダイエー小倉店の開店に至りました。期待と不安が交錯するような中迎えた開店当日、5階の釣具コーナーから外を見下ろすと、早朝であるにも関わらず、見たこともないような数千mの行列ができていました。そして、開店と同時にお客様はなだれこみ、釣具コーナーも男性客で大盛況となりました。

 その日、当時の釣具店における数十倍もの売上を達成し、クチコミで広がった釣具コーナーは日を追うごとに売上を伸ばしていきました。この成功により次々と出店を重ねたポイントは、ダイエーの驚異的な成長とあわせて瞬く間に時代の波に乗り、昭和48年には38店舗までに拡大。40億円を売り上げ、当社総売上の75%を占めるまでになりました。

■昭和43年-55年:現金問題と通信販売(ディスカウント・カタログストア)への転機

 昭和43年、外交卸販売からの全面撤退、そして業界初の現金問屋の開設は、当社のその後の経営基盤の中で大きな影響をもたらしました。しかし、ダイエー出店に伴う小売店からの反発は大きく、卸売上の減少を防ぐため、先代はアメリカ・ヨーロッパ各地の視察旅行時に習得した全国小売店向けのカタログによる通信販売や外交販売のノウハウを活かしコストの削減を試みました。徹底した価格訴求とサービスによる定期的な現金卸市を本社で毎月2回開催しました。 

 また、大型小売業を通じて吸収した様々な経験を活かし、品揃え、接客、PB商品の開発、情報の提供等、来店頂くための諸政策として展開した"売掛ゼロの現金販売"は、着実にルートセールスからの変革を遂げ、固定客の増加にも繋がりました。また昭和53年に発足したフランチャイズ組織「T.P.C会(タカミヤパートナーチェーン)」の業績も年を追う毎に大きな伸びを示し卸業務も安定、充実したものとなりました。

■昭和49年:ダイエーからの退店、直営大型店舗「ポイント」誕生

 ダイエーへの出店に伴い、経営基盤は徐々に強化されていきました。しかし、多層階での売場展開、陳列スペース、営業時間、広告規制、活餌の販売規制など、年々増加するお客様のニーズにお応えできない状況になっていることも事実でした。そういった中で、ダイエーの釣具店直営化政策に危惧を覚えた当時の企画部長、現社長・高宮俊諦は、テナント展開での限界を先代に提言し、自社直営店舗展開の必要性を訴えた15枚の報告書を提出しました。ダイエーの順調な成長に伴う当社の売上比率が75%を超えていたにもかかわらず、ダイエー退店から直営小売展開への決意はまさに大きな賭けでした。

 そして、昭和49年八幡駅前に待望の「ポイント1号店」を開設。当時開店3日間の売上がはじめて1000万円を超え、先代、現会長ともに自信を深める結果となりました。その後昭和52年、社運を賭けた決断でダイエーに退店を申し込み、昭和58年には千葉店を最後にすべての退店を終了しました。当社の社歴において大きな業績を刻み、販売技術をはじめ、様々な面からご支援頂いたダイエーの恩恵には今もって深く感謝しています。

■昭和49年-50年:本社をテレビ西日本本社跡へ移転

 昭和49年になると、当社独自の他店舗展開事業拡大に伴い従業員も増え、やがて本社も倉庫も手狭になってきました。そんな時、八幡駅前にあったテレビ西日本社が福岡市に移転するとのことで早速申し出ることとなります。日本赤十字社ほか大手商社数社との跡地購入の競合の末、数億円の商談を当時の古賀常務とわずか40分という異例のスピード商談で購入、昭和50年に本社及びポイント八幡店を移転しました。

 当時八幡に本社をおくテレビ西日本の社屋は、新築の際、高松宮殿下がテープカットされた由緒ある建物として有名でした。その荘重かつ広大なビルに拠った当社は地域社会の話題となり、釣業界はもとより各業界の注目を浴びることとなりました。それに伴い、知名度や規模、取引増大、ポイント八幡店の大幅顧客層増、海外貿易など、業界及びメーカーとの取引上さまざまな好影響をもたらしただけでなく、新卒者の入社応募急増など企業イメージアップにも大きく貢献しました。