「タカミヤってどんな会社?」「釣具屋さんでしょ?」その通りです。でも、ただの釣具屋ではありません。 目指すは「世界一の釣具店」。私たちは本気で考えています。

例えば、「釣りの会社だから釣り好きな人を採用する?」とよく聞かれますが、私たちは決してそうは考えません。
もちろん、釣りやアウトドアが好きな社員は多いです。しかし、それ以上に大切にしているものがあります。 

 それは… 「サービスシップ」を持っている人

 私たちは「世界一のサービスを提供できる釣具店」を目指しています。そのためには、「サービスシップ」を持った方が必要不可欠です。

「他人のことを自分のこと以上に考えてしまう人」「人の喜ぶ顔を見るのが何よりも好きな人」「ちょっとしたひと手間を惜しまない人」… そんなあなた。 

あなたの将来の選択肢のひとつに、是非タカミヤを加えてください。これだけたくさんの会社がある中で、皆さんが入社する会社はたった1社。 そのたった1社を選ぶ就職活動というのは、ものすごく大事なことです。タカミヤは、皆さんにとってのオンリーワンな企業でありたいと思いますし、一緒に人生を歩んでいける存在でありたいと考えています。あなたにピッタリな企業との出会いはきっとあなたの人生を豊かにします。 

あなたにマッチする会社かどうかを見分ける最良の方法をお伝えするならば、それは実際に会社の中に入ってどんな職場なのか、そしてどんな人が働いているのかを自分の目で見て、体感することだと思います。

だから、タカミヤはいつでも、誰でも会社訪問大歓迎です。どうぞ気楽な気持ちでフラッと遊びにきて下さい。「こんな人たちと一緒に仕事したいな」と感じてもらえたら、それほどに嬉しいことはありません。 

さあ、私たちの夢の実現に向かって、共に歩んでいこうではありませんか!

【上田氏の経歴を紹介】

※記事のご提供:名光通信社様

 (株)タカミヤに1994年(平成6年)に新卒として入社。学生の時、アルバイトに精を出す等、働く事は好きだったが、将来に対して明確な目標や夢もなく、本気で物事に取り組む事がない学生だったそうだ。タカミヤに入社したのも、就職説明会でたまたま話を聞いたのが同社だったから。当時、「ポイント」という釣具店の事も何となく知っている程度だったという。一般社員としてタカミヤに入社したが、新入社員研修後の理解度テストでは最下位に近い成績で、底辺からのスタートとなる。「この時、生まれて初めて無性に悔しいと思いました。研修姿勢や立ち振る舞いを含め、成績が上位の人は幹部候補として、当時のポイントの旗艦店や新規出店先、韓国の店舗などに配属されましたが、当然、私は選ばれませんでした。学生の頃から何かに本気で打ち込む事ができず、社会人になれば変わる事ができると思っていた矢先の厳しい現実でした。『選ばれる人と選ばれない人がいる』。このままではダメだと目が覚めました」と語る。最初に配属された店舗でがむしゃらに働いた。「とにかく仕事で目立って、関東の店舗に配属されなければならない」。そう考え、昼夜問わず猛烈に働いた。

当時勤務していた横浜港南台店

 1996年(平成8年)、念願の関東に異動となりポイント横浜港南台店(以下、港南台店)の店長代行に就任。翌年、1997年(平成9年)にはポイント金沢文庫店の店長。1998年(平成10年)にはポイント横須賀佐原店の店長。そして、1999年(平成11年)から2002年(平成14年)までポイント港南台店の店長となる。この港南台店は驚異的な売上を誇る店舗として有名だが、この店長時代の経験が自分の中で一番強く残っているという。「私はいつも極端に肩に力が入っている社員でした。販売力は誰にも負けない、荷物を運ぶのも売場を作る行動力も体力も、とにかく誰にも負けないという気持ちを前面に出して仕事をしていました。当時、私は20代半ばで、お客様もスタッフも私より年上です。それで、若いからと言って甘く見られないように、なおさら肩に力が入りました。気付かないうちにひどく傲慢な店長になっていったのです」当時の自分は会社や仕事、売場、お客様、商品等に対する愛情は、誰にも負けず、強い思い入れがあったが、スタッフに対する愛情だけが全くといっていいほど欠けていたという。「スタッフが1人や2人辞めても関係ない。自分が倍働いて倍売ればいい」。そう考えて、がむしゃらに働き続けた。その結果、売場は崩壊した。当時、港南台店はパートを含め20名ほどが勤務していたが、店の雰囲気は悪く離職も相次いだ。接客もままならず、欠品も多くなり、お客様の心も離れ、ついには売上も大幅にダウンした。人一倍努力をしてきた上田は大きな挫折を味わった。この結果を受け止め、悩んだ末に全スタッフに謝罪し、「私が間違っていた。心を入れ替えるから、もう一度だけ私に協力して欲しい」と涙ながらに訴えた。この時から港南台店は大きく変わり、国内屈指の売上を誇る釣具店へと変わっていった。

 「当時は、後ろについて来る者が誰もいないという感じでした。私自身が『何か文句があるなら俺よりもすごい事をしてから言え』といった態度でしたから、お店もよい雰囲気になるはずがありません。お店の雰囲気が悪いのはお客様にすぐに伝わります。売れなくなって当然でした。この港南台店の経験が私を大きく変えました。一人が頑張るのではなく、みんなで頑張る。一つのチームとしての営業に目覚めたのです。それまでは自分中心で、スタッフへの思いやりや、心配りなどが、全くできていませんでした。それ以降、スタッフ全員に協力して頂く為には、自分がどのようにしなければならないのか?スタッフ一人ひとりに心を寄せて、常に考えるようになりました。大勢のスタッフの気持ちが一つになった時に生み出されるパワーはすごいものがあります。当然、お店も盛り上がります。その結果、2、3年後には、港南台店は日本一と言われる売上の店舗になりました」 

 その後、地区長を1年間務め、本社小売事業部次長、営業部長、31歳で取締役に就任。常務、専務を経て、2016年社長に就任となった。髙宮会長から社長就任の話があった当初は、社長になることがイメージできず一旦断ったそうだが、ここまで育て、引き立てて下さった会社や髙宮会長に強い恩義を感じていた上田は、話し合いの末、社長就任を決心した。